今日もどこかへ帰りたい

帰る場所なんてない、都合のいい女の独り言

雑草根性と生き地獄

お先真っ暗とはことのことかと思う。


わたしは専門学校卒の20代前半の女だが、専門学校を卒業してから4年の間にすでに4回転職を行なっている。そのうち1年仕事が続いたのは1件しかなく、最悪なところは3ヶ月しか続かなかったくらいだ。しかも、4回の転職のうち2回は派遣社員への転職だ。幸い、自分は派遣社員のほうが直接雇用の仕事よりも向いていると言うか、気持ちを楽にして働くことができると気が付くことができたし、自分のこの先の生き方についても少しだけ光が見えたような気はするので、それはそれで良い発見ではあったのかなとは思うけれど。
それでも正社員で働いていないことへの世間からの風当たりというのは冷たく、所詮は自分はマトモな人間ではないのだなということを思い知らされた。特に、正社員での再就職を望む両親の元へ帰ってきてからは、もう何度「でも派遣じゃあねぇ」という言葉を聞いたものか。わたしは正社員として直接雇用で働くということには向いていない、きっとまた辞めてしまうくらいなら、派遣社員でも細々と長く続けていきたいと何度も説明しているが、両親はわたしが頑固であることを知っているため、その場ではわかったように頷きはするが、何ひとつ理解はしてもらえないのである。
少し前までは両親との仲は良いものの、仕事に対する考え方がうまいこと噛み合わず噛み付いてしまうこともあったが、今では年寄りとは感覚が違うから話し合っても無駄だと思うようになり、仕事についての話をあまりしなくなった。わたしさえ適当に流していれば、そしてきちんと仕事を始めてしまえば、両親もとやかく言わなくなるのは目に見えている。年寄りとは感覚が違うと言うと少し失礼かもしれないが、実際両親もわたしや姉のことを「最近の若い子はすぐに〜…」と言いたがるのだから、こちらが向こうを年寄りだと言っても何にもおかしくはないだろう。

自分自身、派遣社員として働くことに不安がないわけではない。父はすでに定年退職しているし、母の定年も近づいてきている。そうなれば、実家に暮らしている人間の中で唯一収入があるのはわたしだけになる(姉は恋人と同棲しているため)。その時に、わたしはどんな人間として、どんなふうに生きているのだろう?と考えると、明るい未来など微塵も見えず、ただただその時にも、この先どうすればいいのか、という気持ちを抱えて鬱々としている自分しか想像ができないのだ。友だちも少ない、(正式な)恋人もいない。結婚などしているビジョンはまるで見えないし、していたとしても誰とどんな人と結婚しているのかも想像がつかない。また、もし今の恋人のような人と結婚していたとしてわたしはそれで本当に幸せなのだろうか?未来のことなんて誰にもわからないし、考えたってキリはないのだけど、それでも時折考えては、何も見えない真っ暗闇の中、強烈な不安に押し潰されてしまっているのが現状だ。そういう時に、そうか、これがお先真っ暗ってやつなのか、と自覚するのである。

母親の付き添いでスーパーに買い物に来ているとき。父親の運転する車の助手席に座っているとき。姉と手を繋いだり腕を組んだりしてショッピングモールやゲームセンターで遊んでいるとき。ふとした時に、自分は6年ほど前から先月まで、1人で過ごしていたんだよなあとなんだか懐かしいような気持ちになり、そして同時に、その時にはなんやかんやでいつも恋人が近くにいたなあ、と思い出すことが多くなった。思い出した後には、必ず、猛烈に恋人が欲しくなる。つまり、ものすごく寂しいんだとわたしは思う。
実家に帰って来れば、少しは気が紛れるのかと期待していた。実際、普段から喋ることも多くなったし、寂しい思いをする機会は激減したと言える。ただ、母には父が、父には母がいるし、姉には長年付き合っている恋人がいる。お互いにそういった相手がいる中で、わたしだけはひとりぼっちである、という疎外感のようなものは否めず、それが逆に、おかしな強烈な寂しさに変換されるのだと感じている。そんなときは、フローリングの上でごろりと横になる、わたしと同じく独り身である愛犬の胸毛に顔を埋めにいく。15歳の老犬は、大体は決まって困ったような嫌そうな顔をするのだった。

「あなたはまだ若いんだから」と言われることが本当によくある。その言葉に対してどう返事をしたらいいのかわからないのは、若いことが良いことであるのか悪いことであるのかイマイチ自分でもわからないからだ。若いから可能性があるのか?それとも若いから苦労をしろということなのか?どちらにしたって、わたしは自分が20代前半だということで何か可能性があると感じたこともないし、若いからという理由で物事が許されるような年でもなくなってきていることにも薄々感づいている。
先日、「若いから挑戦をするのも大切だ」と派遣会社の営業マンに励ましのようなお説教のようなことを言われたが、わたしは元々社会で、世間で、今のこの世では非常に生きにくい性格であることは自覚しているため、生きるだけでも精一杯なのに、これ以上なにに挑戦したらいいのかと途方に暮れてしまった。
世の中は叩けば伸びる雑草のような人材を求めているのかもしれないが、失礼だとは思うが、それに耐えられるのは本当に雑草のように適当にそれなりに生え揃い生きてきた一般的な人たちで、わたしのように生きにくさを抱えて今までの人生を歩んできた温室育ちの人間には、世間の叩けば伸びるという育成方法はただの暴力だと感じることも多いのではないかと思う。もちろん、本当に手をあげられているわけではない。わたしが他の人たちと一緒になるよう、一緒に生きていけるよう切り揃えられ、時に摘まれ、時に叩かれるような行動、言動などを目にすると、なんだか今すぐにでも殴りますよ、とファイティングポーズを取っているボクサーを目の前に配置されているような気がして、どうしても一歩引いてしまいがちなのである。できることなら、そういう人間なんだと理解してもらえれば有難いが、現実問題そうもうまくいかず、わたしもそれを受け入れることしかできないのだ。こうやって、少しずつ世間のはみ出し者というレッテルが貼り付けられていくのかと思うと、なんだか腑に落ちない部分も多いような気がする。

わたしはよく「この世は地獄である」と言葉にする。生きていても地獄だと思うことがこれほど世の中には溢れているのだから、いっそ死んでしまって、なにも考える、感じることができないようになってから、地獄を見るほうがずっと楽なのではないかと感じることがある。ただし実際自殺する勇気もなく、甘ちゃんだと指を指されて笑われることになり、そんな勇気がない自分にも腹が立って、また再び「この世は地獄だ」と思うきっかけを作り出す。なんとも生産性のない、ゴミのようなループだろうと心底思う。

いっそ死ねれば、この先の人生お先真っ暗だと不安に思ったり、嘆くこともないのだろう。現実を生きるよりも、そのほうがどれほど良いか。けれど、今日もしぶとく生き続けている自分にまた嫌気がさしながら、この生き地獄の世の中を泳いでいかなければならないのかと思うと、肺の空気を目一杯吐き出すような、ふかーいため息がでてしまうのであった。

ゆびきりげんまん

「どうして好きな人って表現するの?あっ、彼氏じゃないの?なのにやることやっちゃってるの?でも彼女にしてくれないんだ?」

 
要約するとそんな内容のツイートを見かけたことがある。わたしに向けられたものではないにしろ、少しカチンときたツイートだった。
 
うるせえなと思う。こちらの事情など何も知らずによくも言えるなと思う。基本的にはTwitterで自分の言いたいことを喚き散らかしてきたわたしだから、これはものすごい強烈なブーメランであるのは分かってはいる。けれど、もう本当に心底うるせえなと思う。
 
恋人とはなんなんだろうか。
 
「好きです。お付き合いしてください」
「わたしも好きです。喜んで」
 
この会話が成立しなければ恋人ではないのだろうか。お互い好きなだけでは恋人にはなれないのだろうか。どこからどこまでを恋人と言えばいいのだろうか。ハグをしたら、キスをしたら、セックスをしたら、恋人と言ってしまってもいいのだろうか。そうすると、わたしと好きな人の関係は一体なんなんだろうか。
 
ここで、恋人について調べてみた。
 
こい-びと〔こひ-〕【恋人】の意味
「恋人」は恋しいと思っている異性で、多く相思相愛の間柄についていうが、片思いの場合にも使うことがある。
 
なんだ。片思いでもいいんじゃないか。恋しいと思っている相手であれば、恋人と言ってしまってもいいんじゃないか。それならわたしにとって彼は恋人だし、彼にとってもわたしは恋人になるのかもしれない。そう思うと、なんだか恋愛についてあれこれ悩んだ末に出来上がってしまった心の中にある階段を、一段登ったような気がした。わたしにとって、彼は恋人。そうか、恋人なのか。わたしは、彼のことを恋人と、せめて心の中でだけは思っても良いのだ。
 
今日、少しだけ彼と話をした。彼はいつも通り、テレビやパソコンなどあちこちに興味が飛んで行っては話の腰を折り、わたしの話なんてちっとも聞かなかった。ここ最近、彼との関係性について考え気分が落ち込んでいたこともあり、また、彼が相変わらずの様子であることをいいことに、わたしはこんなことをボソッと呟いた。
 
「そっちで君が他にいい人見つけられないのなら、もうわたしがもらうしかないなあ」
 
彼からの返事はなかった。もちろん、気まずくなったのではない。ただ単に聞こえていないのだ。わたしの話など。それを知っていて、わたしはさらに続けた。
 
「ね、もらってもいい?わたしがもらってもいいかな?」
 
わたしからのクエスチョンマークがようやく耳に届いた彼からの返事はこうだ。
 
「え?ああ、うん」
 
彼が話を聞いていないにしろ、わたしが勝手に言ったことにしろ、彼からの「お婿にいきます」宣言をしっかりと聞いたわたしは、とても満足した気持ちになって、その後、わけもわかっていない彼とゆびきりげんまんをした。もちろん、本気に受け取ったりはしない。彼がうわの空の中で発した言葉だなんてことはよくわかっているから、どうせこの口約束にはなんの効力もない。それでも、うわの空でも、彼からのイエスの返事は嬉しかった。
 
わたしと彼は出会って半年で、お互い好きだよと言い合ったことはあるけれど、正式に付き合ってほしいだなんて言葉にしたことはないし、しかも今は800kmも離れた場所にいるけれど、彼はわたしからすれば恋人だし、しかも、冗談でも、お婿にきてくれる約束をした、大切な恋人だ。今、将来に対して様々な不安で押し潰されそうで、精神的に不安定なわたしにとって、その気持ちだけが、唯一少しだけ、わたしを前向きにさせてくれるのだった。
 
ちなみに、ゆびきりげんまんの後の会話は以下のように続く。
 
「ゆびきりげんまんはいいけど、でもねえ、おれ、長男だから。お婿にいけるかどうか」
「えっ、聞こえてたんだ…」
 
わたしと彼のゆびきりげんまんが、嘘ではないことを心から願っている。

二度と会えない

わたしの好きな人はわたしの住んでいるところよりも800kmほど遠いところに住んでいる。彼とわたしはお付き合いはしていないらしいが(らしい、なんて曖昧なのは、彼が言葉を濁しているから)、一応お互い好き合ってはいるようなので、本当なら今すぐにでも彼のところへ飛んで行ってしまいたいところなのだが、何せお付き合いもしていない程度の間柄じゃ、彼のことを追うことも躊躇ってしまうのである。躊躇うくらいじゃあ本気で彼のことを好きじゃないのだから、やめてしまえなんて思う人もいるかもしれない。ただ、ここには書かないけれど、わたしと彼のなんとも言えない、微妙で腹立たしい関係、それからわたしの家庭の事情などを考慮した結果、躊躇っているのだということをどうか分かって欲しい。気持ちだけで、身一つで彼の元へ飛んで行けるほど、わたしも彼ももう若くはないのだ。

彼と離れ離れになってもう2ヶ月と半月ほど経つ。一応毎日のLINEのやり取りと、2週間に一度ほどかかってくる彼からの愚痴の電話に対して、そっかそっか大変だね、と相槌を打つ程度の関わり合いはしてきたつもりである。ただ、ここ最近になって彼の様子が少し変わり、今度は更に離れた大都会・東京に転職活動に向かうと言い始めた。ただでさえ、彼は地元を離れる際にあーだこーだと文句を言いながら飛び立ったのである。それが、また更に遠くへ行ってしまうのかと思うと、呆れなのか、悲しみなのかわからないけれど、とにかくため息が出た。彼がどうしたいのかまったくわからない。おそらく、彼自身もわかっていないのだろうと予測している。自分のやりたいこと、できること、何もかもが迷宮入りしてしまっているのだと思う。もちろん近くにいれば、少しでも彼の力になれるようわたしも努力しただろう。けれど、こうも距離が離れてしまっている以上、わたしにできることなんて、何もないのだ。そして、わたし自身にも、そんな不安定な彼の元へ飛んで行って、彼と将来を見据えながら一緒に過ごし、彼のことを支えられるような自信も、勇気も、それからお金だって、手元にはないのである。

ただ、彼は今の時点で、わたしに自分の元へやってくるよう言葉にすることが多々あった。わたしも、その言葉に乗って、彼の元への引越し資金の計算などをしたこともあった。彼はその分のお金も自分が払うとなんの迷いもなく言った。その時に初めて、彼のほうがわたしとの関係について前向きに考えてくれているのかもしれないと気が付いた。なのに、わたしは準備はほぼ整っているという彼の言葉に対して、でも、と言葉を濁すことしかできなかった。両親や兄弟からの言葉、恋人ではないという微妙な彼との関係性、そして未だに自立することができない自分への不甲斐なさ。それらがごちゃ混ぜになって、彼と一緒になることについて二の足を踏んでいるのは、自分だけなのではないかと薄々気が付き始めている。結局のところ、またわたしがすべて悪いのだと。

堂々と恋人の元へ飛んで行ける人が羨ましいと思う。転勤になった彼について行く人、遠距離の彼の元へ引っ越す人。もちろん、そういった人にもたくさんの障害があって、それを乗り越えてきたのだと思う。その中には、わたしが今抱えているような問題もあったのだと思う。ただ、それはすべて「恋人」の側にいるための行動であるということが大前提なのである。恋人。いつか結婚するかもしれない人。もう何年もお付き合いを続けている人。もう一生側を離れたくない人…

わたしは彼のためにそこまでできるんだろうか。彼のために問題を乗り越えることができるんだろうか。彼の側にいることが、わたしの願いなんだろうか。考え出すときりがない。最初にも書いたとおり、わたしも彼も、気持ちだけで行動を起こせるほど若くはないのだ。年齢的にはまだまだかもしれない。けれど、特にわたしには、もう時間がないのだ。女として生きて行ける時間が、わたしにはもうあまり残されていない。今後の行動には、慎重にならなければならない。そんな気持ちが、わたしのなけなしの勇気にさらに待ったをかける。そして、さらに離れた場所へ行ってしまうと言う彼の気持ちや行動も、わたしの彼を好きだという気持ちをどんどん吸い取ってしまう。自分のやりたい仕事に就けず、人生について迷走する彼。そんな彼の気持ちを読み取れず、人生において迷走するわたし。いつ終わりが来るかわからないこの関係を、わたしたちはいつまで続けるつもりなんだろうか。

わたしでいること

仕事や恋愛が自分の思い通りにならないことって、たくさんある。たくさんあって、そこでわたしは過ちを犯したんだと自分に言い聞かせて、その度に後悔と反省をしたつもりでいた。けれどわたしはいつまで経ってもわたしのまま。いつの日だってわたしのまま。何度「学習しない」と言われたら気が済むんだろう。ここにこう書いているのに、たぶんこの先もわたしはまた似たような過ちを犯しては後悔して、そしてそれを繰り返していくんだろう。何度も何度も。だってそれは、わたしがわたしだから。


わたしはナルシストだから、自分のことは大好きだけれど、わたしはわたしでいることに非常に疲れているし、怒っているし、悲しんでもいる。呆れてだっている。わたしがわたしという人間でいる以上、わたしが思い描く理想のわたしになれることは、きっとこの先一生ない。きっとこの先も、わたしはわたしでいることを一生嫌だと思いながら生きていくんだと思う。

だからわたしをわたしのままでいいんだよと言ってくれる人が欲しかった。それは外見に関するような薄っぺらい話なんかではなくて、もっと深く深くの問題で。つまり、わたしを嫌だと思うわたしもまたわたしなのだから、それでいいんだよと言って許してくれる人が欲しかった。わたしはきっと一生自分を認めたり、許したりすることができないと思うから、せめて誰かにそうしてもらいたかった。そういう人がいないかと、今の今までフラフラと過ごしている。

結論から言うと、そんな人はきっとわたしがわたしを許せないのと同じように、一生現れないのだと思う。自分が自分を許せなくて、認めることができなくて、どうして他人がわたしを理解して、許して認めてくれるなんてことがあると期待しているんだろう。理由は簡単で、期待するほうが楽だから。わたしがわたしを許すよりも、誰かに期待したまま生きるほうが楽だから。そうやってフラフラと生きることを選んだのは何より自分自身で、ほらやっぱり、そういうわたしが嫌で、また怒って、悲しんで、呆れてる。何度も何度も何度もこれを繰り返している。どう考えたって悪循環。わかっているけどやめられないし、永遠に終わらない。わたしは一生この輪から出ることができない。絶望的だなと思う。いっそ笑えてくる。

「一生」という言葉を多用するのは大袈裟なのかもしれない。けれどわたしにとってはこの気持ちや考え方、感じ方は一生続いていくものなんだと思っている。一生、わたしはわたしという人間であることに怒り、悲しみ、呆れて生きていくんだと思う。お先真っ暗な人生だな、と心底感じている。自分のことは好きだけど、自分を許せず認められない人間の人生なんてきっとロクなものじゃない。今のところ、光なんて見当たらない。

今のところ、と一応付け加える辺り、やっぱり希望があることを期待している、甘っちょろいわたしの嫌な部分がまた見え隠れしていて腹が立つ。

この文章は特になんの考えもなく打ち込んでいる。いつもならできるだけ知的に見えるよう時間をかけて文章を構築して、何度も読み返して誤字脱字がないか、おかしな表現や言葉がないかとチェックをしているのだけど、もうそんな気力もない。ただただ言いたいことを、思っていることを吐き出したくてだらだらと同じようなことを打ち込んでいる。

ここ数日で理由はわからないが一気に気持ちが落ち込んで、SNSをチェックするのも嫌になってしまった。できるだけわたしを知っている誰かと関わりたくないし、いっそ関わりを断ちたくなっていた。いた、というよりは、今もそう思っている。けれど新しい人間関係を構築するのも嫌なので、現在八方塞がりの状態である。1人は好きだけど独りは嫌いだ、なんて洒落たことを言うつもりはない。1人にも独りにもなりたいわけじゃない。ただただわたしがわたしであることが嫌で、わたしを知っている人と一切関わりたくないだけ。でも、気持ちを吐き出すことがしたくて、久しぶりにブログを更新してみた。これで少しでも、わたしの気持ちが晴れるか、紛れるよう願いを込めて。

無敵の集団

本日、職場からの帰りの出来事である。

 

今日も1日頑張った、とため息をつき、左耳、右耳とイヤホンをさしながら、地下へ向かう職場のビルのエスカレーターに飛び込む。時間帯が時間帯であるため、下りのエスカレーターはぎちぎちなくらいに人が並んでいたが、隣の上りエスカレーターには、ぱらぱらとしか人が立っていなかった。すれ違う人々は皆疲れた顔をしている。皆さん、今日もお疲れ様。明日も頑張ろうな。心の中でエールを送る。もう付き合って5年ほどになるiPod nanoを片手に帰りは何を聴こうか、と今まさに悩み始めようとした途端、上りエスカレーターの乗り口付近に、6人ほどの女の子たちが固まっているのが見えて、思わず思考が止まった。

 

クローンだ。もしくはストームトルーパー。

どっちも同じようなものだけど、とにかくそれだと思った。

 

まず、わたしほどのショートカットの女の子はいなかった。むしろ、肩につく程度のミディアムボブの子すらいなかった。派手すぎず地味すぎない、ちょうどいい茶髪。胸のあたりで揺れる、ちょうどいい長さの巻き髪。全員が全員、ほぼ同じような髪型だった。頭のてっぺんが黒くなりつつあるような、そんな手抜きは許されない。毛先まできっちりと綺麗な茶髪だ。強いて言えば、前髪がセンター分けであるか、斜め分けであるか、もしくはぱっつん前髪か、程度の違いである。

それから、わたしのようにでっぷりと着膨れするようなもこもこのモッズコートを着た女の子はいなかった。アジア系の観光客が着ているようなダウンジャケットを着ている子ももちろんいなかった。ガーリーすぎずカジュアルすぎない、ちょうどいいシルエット。甘すぎず個性的すぎない、ちょうどいいパステルカラー。こちらも全員が全員、ほぼ同じようなチェスターコートを着ていた。ピンク、ブルー、ベージュ、グレー、もう一回ベージュ、もう一回グレー。4色展開だ。強いて言えば、靴の形がロングブーツであるか、ショートブーツであるか、程度の違いである。

 

彼女たちはちんたらと歩きながら、2人ずつに分かれて上りエスカレーターに乗った。その後ろで、これは見事にてっぺんだけが禿げ上がった中年のサラリーマンが、追い越したそうな顔をして、女の子たちを見上げていた。

 

「なんかいいにおいするー」

「わかるー!」

ジンギスカンだよねきっとー」

ジンギスカンのにおいかー」

「おなかすかないー?」

「わかるー!」

 

全体的に語尾は伸ばし気味だ。それから「わかるー!」の一言は、誰が言っても他の言葉よりも2トーンくらい高めで、声のボリュームも通常が20だとしたら26くらいの絶妙なバランスで、彼女たちの姿が見えなくなるまで、あと2回ほど繰り返されていた。

 

わたしはこういう女の子の集団を見ると足の裏にじんわりと嫌な汗をかく。歩いている後ろに気配を感じようものなら、玩具のようなカートに乗った皆さんご存知の配管工・マリオが、アイテムボックスから見事にスターを引き当て、無敵状態になりながら後ろから煽ってきているかのような気持ちになった。こんなときばかりは、足の裏にどころか、もれなく脇からの汗も止まらなくなる。

 

こういった女の子の集団のことを、わたしはこっそりと「無敵の集団」と呼んでいる。

つまり、スターを引き当てた、無敵状態のマリオが集団になっているのだ。

そんなの、怖いに決まっている。

 

女という生き物は、共感をする生き物である。友だちに悩みを打ち明けるときにも、その悩みに対するアドバイスなど求めてはいないのだ。男性がこの正解にたどり着くことができず、困り果てている姿をよく見かけるが、女の子の悩み相談には、基本的には「わかるー」とか「あるよねそういうのー」とか相槌を打っていればいいのだ。まともに話を聞き、解決の糸口を見つけようとするだけ無駄である。むしろうっかり糸口を見つけてしまい、的確なアドバイスなどしようものなら、そこが喫茶店だとしたら、おそらく冷えたカフェオレを顔に引っかけられるだろう。

女はそういう生き物であるから、友人同士で痛烈な批判をしない。軽口で「それはあけみが悪いよー!」なんて笑い飛ばすことがある程度で、相手も「そうかなー?」なんて、本気にしないことがほとんどだろう。だから無敵なのである。その集団の中で、自分を強く批判してくる人物はまずいないのだから。つまり、自分が悲しむことも、傷つくこともほぼないのだ。これは無敵であると言っていいとわたしは思う。

 

ここで間違ってはいけないのは、女の子が無敵な訳ではないということである。むしろ、女の子は脆い生き物だ。正確に言うと、脆い生き物であるように見せかけるプロだ。女の子は1人でいると、たちまち脆弱になる。脆弱になって、世の男たちに守ってもらおうとする。その点では女の子は1人でも無敵と言っていいのかもしれないが、それでも女の子たちは意外と1人でいるときは、大人しく行儀のいい生き物になる。

例えば、1人でいるときは、地上と地下鉄の改札を結ぶエレベーターにあまり乗らなくなる。1人ならほぼ迷わず階段を選ぶだろう。だが、これが仲の良い女の子2人、3人になってみたらどうだろう。「歩き疲れたよねー」「エレベーター乗る?」「いんじゃない、疲れたし」なんて言ってキャーキャーとやたらに笑い声を上げながら、エレベーターに乗ること間違いない。こうなると、もう無敵の集団になる。エレベーターに乗ることを批判する女の子は、1人としていなくなるのだから。

 

この話には終わりがないため、もうこの話をするのはやめるが、とにかくそんなわけで、わたしは今日、無敵の集団(しかもクローン!)に出会い、例に漏れず、足の裏にじっとりと嫌な汗をかいたのだった。

ちなみに、この記事に書いてあることは、あくまでも、わたしの個人的な意見・主張であるということを、忘れないでいただきたい。

乾かない洗濯物

本州の雪の降らない地方では、冬でも洗濯物を外に干すということを、わたしは大人になって初めて知った。

むしろ、わたしの実家では夏でも洗濯物は室内に干すのが普通だった。外に干すのは、主に寝具などの大きな洗濯物だけだったので、洗濯物というのは、特別な時にだけ外に干すのだと思っていた。

そんな生活が当たり前だったからか、一人暮らしを始めてからも、ベランダという便利なものがあるというのに、わたしはほとんど外に洗濯物を干したことがない。だって、虫とかつくかもしれないし。洗濯物が落ちて、汚れてしまうかもしれないし。

 

下着泥棒の話をたまに聞くが、これに関しても不思議だと思っていた。なぜ外に干さないのに下着を盗まれるんだろうと思っていた。そして、その下着泥棒の対策として、男性用の下着などを一緒に干しておくといい、という方法があるということも、大人になって知った。

面倒だなあ、と思う。そんなことしないで、下着だけでもいいから、室内に干せばいいのにな。なんでそうしないんだろう。

 

どうして洗濯物の話をするかというと、先日、洗濯物を取り込んでいる途中、物干し竿に見覚えのない趣味の悪いTシャツがぶら下がっていることに気が付いたからだ。それから、2枚のボクサーパンツも。あと、靴のサイズは基本的にSサイズであるわたしの足には大きすぎる靴下。

そんなものたちが、頭上にあるエアコンからの温風にゆらゆらと揺られて、こっそりと存在を主張していることに気が付いた。

 

先月別れた恋人のものである。

処分していいよ、と言われたにも関わらず、わたしは彼の服を洗濯していたのだ。

 

毛玉だらけのTシャツを畳んでクローゼットにしまおうとして、躊躇った。処分していいと言われているんだから、せっかく洗濯はしたけど、もうこのクローゼットに仕舞い込む必要はないのでは?そう思った。

けど、以前の恋人は何せ服の枚数が少ない。かわいそうになるほど、手持ちの服が少ない。付き合っている間に、何枚選んで、買ってあげたんだろう。手元にある、黒字に赤いギラギラした英語が描かれている、まるで中学生みたいなセンスの服は、もちろんわたしが選んだ服ではないけれど。

それでも、彼にとってはたぶん貴重な冬服のひとつなんだろう。処分せずに、洗濯機に放り込んだのも、彼のタンスの事情を知っているからだ。なんだか彼がちょっとだけかわいそうに思えて、我が家に取り残されていた数枚の下着たちと、それからクリスマスに思い立って彼のために購入したけれど、結局渡すことのできなかったYシャツとスキニーパンツと一緒に、小さな紙袋に入れて部屋の片隅に置いておくことにした。

 

いつかこれを渡す機会があるのだろうか。ないような気がする。それならいっそ、早々に彼の家に送りつけてしまおうか。その方がきっとわたしの精神衛生面的にも安全だろう。

それとも、下着泥棒対策として、洗濯物に紛れさせて干しておこうか。夏になったって、ベランダに洗濯物なんか干さないくせに。

 

今月の末には、何人かの恋人と一緒に過ごした時間も多い、ワンルームのこの小さな部屋から、わたしは出て行く。

これをどうするかについては、その時まで、あともう少しだけ、考えることにする。

事故物件

わたしは事故物件である。

 

まず、見た目が悪い。

目が小さい。鼻も小さいし口も小さい。それなのに顔が大きい。太っているから二重顎だし、首が短いし肩周りだってちょっとした屈強な男くらいのボリュームがあるから、なんだか厳つい。
唯一それなりに自慢できるFカップの下には、残念ながらそれと同じくらい、それ以上の大きさの腹があるし、太ももなんてもう、抱き枕の域である。

 

どうでもいいけど、太もも型の抱き枕、ヴィレッジヴァンガードに売っていそうだし、赤いリップをした黒髪ボブの女が「かわいいー!」なんて言いながら抱き締めていそうだ。
お前が抱き締める前に、ちょっと小汚いおっさんが触れていたぞ、なんていうのは絶対に教えてあげない。

 

それから、性格だってお世辞にもいいとは言えない。

ナルシストなくせに卑屈で、ヘタレで、根性なし。メンタル面だって絹豆腐みたいに崩れやすいし、捻くれ者で天邪鬼。おまけに嫉妬深くてすぐに怒る。

 

完璧に事故物件だ。

 

そんなわたしでも今まで誰かとお付き合いをしてきたこともあるし、ということはつまり、誰かに愛されていたことがあるということだ。蓼食う虫も好き好きと言うか、有難いことに、誰かの目には多少魅力的に映ってくれているらしい。

 

事故物件が誰かに愛される感覚を知ってしまうとどうなるのか。

もう、堕ちるところまで堕ちるしかない。というのが、わたしの考えである。

 

 

元々人間としての魅力がないというのに、一度誰かに愛されてしまっているものだから、その感覚が忘れられない。

だから寂しさゆえに誰かを求めるけど、こちとら事故物件だもの、だーれも住んではくれない。

ただ、住みはしないけど、この世の中には物好きがいるものだから、たまに内覧に訪れる人がいる。

 

「ここ、事故物件とは言われてるんですけど、でも中身はそんなに悪くないでしょう?」

「あー、そうですねえ」

「見た目はちょっとアレですけど、まあ、中身はほら、ちょっとところどころ壁紙が剥がれてたり、フローリングがギシギシ音を立てたり、あ、ここはちょっと水漏れが…」

「そう、ですねえ…」

「…次の物件、見ましょうか?」

 

事故物件の紹介人であるわたしは、しかも大変下手くそな営業マンである。自分からダメなところを教えて、相手の顔色を伺っているのだ。それでも悪くない、と言われたくて。言われるはずのない欠点しか並べていないというのに。さらに、押しが弱いものだから、自分から次へ行くよう促してしまうのだ。

 

もうお前営業マン辞めちまえ。頭の中で上司役のわたしが言う。

非常にごもっともな意見だ。

 

話を元に戻すと、つまり、たまに訪れるチャンスにも、臆病な性格であるから、自分から身を引いてああすればよかったと後から後悔して、ひとり枕を濡らしたり、怖いもの見たさで近づく相手にも本気になって、結局は都合がいい女となり、そうしてそんな自分に嫌気がさしたりして、またひとりで枕を濡らしたりしているのである。

 

何度繰り返したって、事故物件を愛してくれる人なんてそうそういるわけがないのに。

わかっているくせに、また愛されたいからやめられない。

こうやって堕ちるところまで、堕ちていく。

 

わたしという事故物件は、今現在、そんな人生を送っている。