今日もどこかへ帰りたい

帰る場所なんてない、都合のいい女の独り言

好きになりたい

眉間にキスをされるのが好きだ。ベッドの中で、不意に抱き寄せられて、なに、と言わんばかりに見上げると、慈しむような優しい視線で見つめられ、眉間にそっと唇が降りてくる。その瞬間が好きだ。それから自然な流れで、顎に手が添えられ、柔らかい唇同士が触れ合うのも好きだ。つまりのところ、わたしはキスがとても好きだ。こめかみにキスを落とされるのも、頬に音を立ててキスをされるのも、耳朶を少し乱暴に甘噛みされるのも、どれをとってもわたしはそれが好きだ。

 

キスももちろんだけれど、それ以上に肌で触れ合いたいと思う。好きだと思う人に触れたいと思う。白いね、引きこもりだから、と笑ったその肌にも、ピアノをやっていたのね、とまじまじとわたしが見つめていたその手指にも、徹夜して少しヒゲが伸びた顎や頬にも、触れていたいと思う。それはきっと、あなたに好意を持っているから触れたいと思うのだ。

 

テーブルを挟んで様子を伺うように見つめてくるその少し日に焼けた肌に、わたしは触れたいとは思わなかった。箸を丁寧に持ち、少しでも上品に見えるよう気を使ってうどんを口に運ぶその手には触れたいとは思えなかった。

優しい人なのだと思う。わたしが不愉快にならないようになのか、それとも自分が悪く見られたくないからなのかはわからないけれど、できるだけ綺麗でいようというその心遣いが見え隠れしていて、わたしはそんな人を前にしておきながら、ああ、あの人は箸の持ち方がわたしに似ていて、ちょっとだけ下手くそだったなあ、なんて思い出していた。なんとも失礼な話である。

 

思い出していたはずなのに、わたしは彼の顔を覚えていない。テーブルの向こうで、落ち着かない様子でわたしと言葉を交わした人物の顔は今でもはっきりと覚えている。それなのに、彼の顔や大まかな形が思い出せず、その代わりに、お酒に少し酔ったときの赤みを帯びた頬や、少し特徴的な箸の持ち方など、断片的な部分だけを思い出しては、今目の前にいる人物に透かして、わたしは彼を見つめていた。
不思議な気持ちだった。目の前にいる人物と、まわりの風景と、わたしの心の中がまるでバラバラだった。ハサミで不器用に切り取られて、1枚の紙に貼り付けられたように、バラバラだった。そして聞きなれない声で問いかけられるたびに、声をあげて笑った。目の前の人物も安心したように笑っていた。今ここにはない彼の姿が、ぼんやりと薄れて、消えていった。

 

初めて実物の彼の肌や唇に触れたのは、その日の、その時間の8時間ほど後のことだった。

まだほのかに甘ったるいようななんとも言えない名残惜しさを、朝日の差し込む明るい2人の部屋に残したまま仕事に行き、薄暗い、今度は1人になった部屋に帰ってきてから、いくつかの通知を適当に確認してため息をついた。求めていた人物のからの返答はなかった。

 

自分でも馬鹿だなと思う。返信がこないことに落ち込み、向こうが忙しいと知っていながら次はいつ会えるのかと、むしろ次があるのかと怖くなって、自分から次の予定を伺いにいってしまう、その積極的な態度こそ、きっと向こうがそっぽを向いてしまう理由であるとわかっているのに、それでも不安が勝って、わたしは黙っていられない。馬鹿なやつだと心底思う。
そういうわたしを好きになってもらいたいのは確かだけれど、それでもそんなことが許されるのは、きっとわたしのような醜女ではなく、もっともっと綺麗な女の人だけなのだということもわかっているから、わたしは余計に心のど真ん中を、大きな槍で突き刺されたかのような気持ちになった。取り繕わない姿を好いてもらえるのは世界から許されたほんの一部の人物であり、わたしのような女は、少しでも良いように見せなければいけないのに、それが下手であるから、都合がいい女で終わってしまうんだろう。

けれど今はまだそれでもいいと思ってしまう。一言メッセージを送ればすぐに返事を返してくれる関係性でいてくれるなら、まだそれでいいと思ってしまう。

 

薄暗い部屋の中、彼の困ったような優しい微笑みと、柔らかい唇の感触を思い出して、彼だけから返事のないスマートフォンを抱き締めて、少しだけ泣いた。

彼の一番になれる日は、たぶんまだまだ遠い。

丸めたティッシュ

賢者タイムという言葉があるように、セックスの後の彼はいつも気怠げだ。ぼんやりとした眼差しでスマートフォンの明かりを目で追っている。彼の男のくせに細くて長い指が、上に下に、右に左にと画面をスワイプするたびに、忙しく黒目が動くのが見えた。薄暗い光の中、明るさを少し落としたスマートフォンの画面が照らす、心が此処にない彼の仰向けになった横顔を盗み見るのが好きだった。彼はたまにわたしの視線に気が付いて横目でわたしを見た。忙しく動く黒目がわたしをちらりと見て、またスマートフォンに目線を戻す。何度かそれを繰り返した後に、彼は鼻でふっと笑った。

「なんで見てるの?」

楽しい?と彼は言いながら、やはりスマートフォンからは視線を外さなかった。わたしはうん、と短く返事をした。枕に埋まった口元から、くぐもった声が漏れた。うん、と聞こえたかどうかすら怪しいほど、わたしの返事は小さくて曖昧だった。わたしの耳にそう聞こえたように、彼の耳にも、曖昧に聞こえたようだった。うん?と、今度は彼がまた鼻で笑いながらわたしにそう言った。なぜわたしに言ったのかわかるのかというと、彼の黒い目が、一瞬わたしを見たからである。わたしはもう一度、うん、と返事をした。今度は枕から少し口を離したから、しっかりと言えたはずだった。なのに、彼からの返事はなかった。彼はまた、ぼんやりとした眼差しでスマートフォンを見つめていた。彼の興味は、もう今は、わたしには向いていないのだ。そしてそれを悲しいとは思わなかった。彼の興味はいつだってわたしには向いていないのだから。これがわたしの日常茶飯事である。だから正直、セックスの後の彼がわたしに気付いて声をかけてきたことに驚いてしまって、気が利いたこと口にする前に、反射的に短い返事が口から出て行ってしまったのだ。それによって彼の興味が逸れてしまったのか、それとも元々さほどわたしの視線に興味がなかったのかもしれない。経験上から、おそらく彼の場合は、後者である。

「つまんねーなー」

彼がそう言った。ごめん、と言いかけた声を、口から飛び出す前に必死に飲み込んだ。わたしに対しての言葉ではないのだ。これも、彼の独り言である。もしくは彼が今見つめている、スマートフォンに対してかけた言葉だ。彼はそれだけ言うと、また口を閉ざして、画面を上から下に、右から左に何度も何度もスワイプした。彼の黒目が忙しく動く。セックスの後の乱れた前髪が爆発して、彼の決して広くはない額が露わになっているのが、なんだか少年のようで、少し可愛らしかった。すん、と彼が鼻をすする。眉間にしわを寄せて何度か鼻を押し上げた後、突然彼は左半身を起こした。伸ばした左腕はわたしの上空を飛んで行って、ベッドサイドにあるテッシュボックスへと着地したようだった。ティッシュボックスから、数枚のテッシュを引き抜く音が、耳のすぐそばで聞こえた。わたしの目の前には、彼の薄い胸板がある。少し見上げれば、男らしいくっきりとした喉仏も、彼の形の綺麗な顎も見ることができた。だけど、彼の目はわたしからは見えなかったし、おそらく彼もわたしを見てはいなかっただろう。彼はその体勢のまま、適当に鼻を噛むと、丸めたティッシュを床に投げ捨てた。そしてまた何度か鼻をすすりながら、元の位置へと戻っていく。わたしがもう一度彼の仰向けになった横顔を見られるようになるまで、彼はわたしを一切見ることはなかった。

「明日何時に起きる?」

彼はスマートフォンを見ながら言った。画面を盗み見ると、アラームをセットしているようだった。わたしは明日は仕事が休みだから、何時でもいいと答えるしかなかった。彼はそっか、と短く言うと、画面を少し操作して、枕の横へ放り投げた。大きなあくびをした後、彼はわたしに背中を向けた。

「おやすみぃ」

やる気のない声でそう言って、彼は背中を丸めた。その背中の、肩甲骨の少し左上に、小さなホクロが2つ並んでいるのを知っている。そのホクロを眺めて、まるでそのホクロへ言うように、わたしもおやすみ、と返した。そうして、彼に背を向けて、同じように背中を丸めた。少し遠くに見える床に、丸めたティッシュが転がっている。涙がじわじわとせり上がってきて、鼻を一度だけすすった。

「あ、そうだ」

突然、背中から声が聞こえたから、思わず肩が跳ねた。彼はとても寝つきがいい人だったから、もう半分くらいは夢の中なのだと思っていた。ベッドが軋む音が聞こえて、わたしの背中が沈んだ。背中に、温かい肌が触れた。彼はわたしの背中に抱きつき、わたしを一度だけぎゅっと強く抱いた後、こめかみにキスをした。見上げると、彼の黒い目が、わたしを見つめていた。見つめて、それから歪められた。キツネみたいな顔をして、ニコニコと笑っていた。

「おやすみのチュー」

そう言って触れるだけのキスを唇に落として、さっさとわたしに背中を向けた。そうしてはあ、と息を吐き出すと、肩までしっかりと布団を手繰り寄せ、それから10秒後には、寝息を立てていた。彼の背中を見つめる左目から涙が流れて、シーツを濡らした。今度は右目から流れた涙が、鼻筋を伝い、左目のまつ毛を濡らして、同じ道を通ってシーツをまた濡らした。それを何度も何度も繰り返した。彼に気付かれないようにと、背を向けて、息を殺して、それから数十分泣き続けた。彼は起きることなく、静かな寝息を立て続けていた。わたしは床に転がっている、丸まったティッシュを見つめたまま、しばらくの間、苦しくなる呼吸と、こめかみから耳まで伝う涙と戦い続けた。

 

いつの間にかわたしも眠っていたようで、次に目を開けるとシャワーの音がしていた。床に落ちていたティッシュはなくなっていて、ベッドの脇にあるプラスチックの黒いゴミ箱の中に、使用済みのコンドームと、白い丸まったたくさんのティッシュたちに紛れて、それは捨てられていた。

無敵の集団

本日、職場からの帰りの出来事である。

 

今日も1日頑張った、とため息をつき、左耳、右耳とイヤホンをさしながら、地下へ向かう職場のビルのエスカレーターに飛び込む。時間帯が時間帯であるため、下りのエスカレーターはぎちぎちなくらいに人が並んでいたが、隣の上りエスカレーターには、ぱらぱらとしか人が立っていなかった。すれ違う人々は皆疲れた顔をしている。皆さん、今日もお疲れ様。明日も頑張ろうな。心の中でエールを送る。もう付き合って5年ほどになるiPod nanoを片手に帰りは何を聴こうか、と今まさに悩み始めようとした途端、上りエスカレーターの乗り口付近に、6人ほどの女の子たちが固まっているのが見えて、思わず思考が止まった。

 

クローンだ。もしくはストームトルーパー。

どっちも同じようなものだけど、とにかくそれだと思った。

 

まず、わたしほどのショートカットの女の子はいなかった。むしろ、肩につく程度のミディアムボブの子すらいなかった。派手すぎず地味すぎない、ちょうどいい茶髪。胸のあたりで揺れる、ちょうどいい長さの巻き髪。全員が全員、ほぼ同じような髪型だった。頭のてっぺんが黒くなりつつあるような、そんな手抜きは許されない。毛先まできっちりと綺麗な茶髪だ。強いて言えば、前髪がセンター分けであるか、斜め分けであるか、もしくはぱっつん前髪か、程度の違いである。

それから、わたしのようにでっぷりと着膨れするようなもこもこのモッズコートを着た女の子はいなかった。アジア系の観光客が着ているようなダウンジャケットを着ている子ももちろんいなかった。ガーリーすぎずカジュアルすぎない、ちょうどいいシルエット。甘すぎず個性的すぎない、ちょうどいいパステルカラー。こちらも全員が全員、ほぼ同じようなチェスターコートを着ていた。ピンク、ブルー、ベージュ、グレー、もう一回ベージュ、もう一回グレー。4色展開だ。強いて言えば、靴の形がロングブーツであるか、ショートブーツであるか、程度の違いである。

 

彼女たちはちんたらと歩きながら、2人ずつに分かれて上りエスカレーターに乗った。その後ろで、これは見事にてっぺんだけが禿げ上がった中年のサラリーマンが、追い越したそうな顔をして、女の子たちを見上げていた。

 

「なんかいいにおいするー」

「わかるー!」

ジンギスカンだよねきっとー」

ジンギスカンのにおいかー」

「おなかすかないー?」

「わかるー!」

 

全体的に語尾は伸ばし気味だ。それから「わかるー!」の一言は、誰が言っても他の言葉よりも2トーンくらい高めで、声のボリュームも通常が20だとしたら26くらいの絶妙なバランスで、彼女たちの姿が見えなくなるまで、あと2回ほど繰り返されていた。

 

わたしはこういう女の子の集団を見ると足の裏にじんわりと嫌な汗をかく。歩いている後ろに気配を感じようものなら、玩具のようなカートに乗った皆さんご存知の配管工・マリオが、アイテムボックスから見事にスターを引き当て、無敵状態になりながら後ろから煽ってきているかのような気持ちになった。こんなときばかりは、足の裏にどころか、もれなく脇からの汗も止まらなくなる。

 

こういった女の子の集団のことを、わたしはこっそりと「無敵の集団」と呼んでいる。

つまり、スターを引き当てた、無敵状態のマリオが集団になっているのだ。

そんなの、怖いに決まっている。

 

女という生き物は、共感をする生き物である。友だちに悩みを打ち明けるときにも、その悩みに対するアドバイスなど求めてはいないのだ。男性がこの正解にたどり着くことができず、困り果てている姿をよく見かけるが、女の子の悩み相談には、基本的には「わかるー」とか「あるよねそういうのー」とか相槌を打っていればいいのだ。まともに話を聞き、解決の糸口を見つけようとするだけ無駄である。むしろうっかり糸口を見つけてしまい、的確なアドバイスなどしようものなら、そこが喫茶店だとしたら、おそらく冷えたカフェオレを顔に引っかけられるだろう。

女はそういう生き物であるから、友人同士で痛烈な批判をしない。軽口で「それはあけみが悪いよー!」なんて笑い飛ばすことがある程度で、相手も「そうかなー?」なんて、本気にしないことがほとんどだろう。だから無敵なのである。その集団の中で、自分を強く批判してくる人物はまずいないのだから。つまり、自分が悲しむことも、傷つくこともほぼないのだ。これは無敵であると言っていいとわたしは思う。

 

ここで間違ってはいけないのは、女の子が無敵な訳ではないということである。むしろ、女の子は脆い生き物だ。正確に言うと、脆い生き物であるように見せかけるプロだ。女の子は1人でいると、たちまち脆弱になる。脆弱になって、世の男たちに守ってもらおうとする。その点では女の子は1人でも無敵と言っていいのかもしれないが、それでも女の子たちは意外と1人でいるときは、大人しく行儀のいい生き物になる。

例えば、1人でいるときは、地上と地下鉄の改札を結ぶエレベーターにあまり乗らなくなる。1人ならほぼ迷わず階段を選ぶだろう。だが、これが仲の良い女の子2人、3人になってみたらどうだろう。「歩き疲れたよねー」「エレベーター乗る?」「いんじゃない、疲れたし」なんて言ってキャーキャーとやたらに笑い声を上げながら、エレベーターに乗ること間違いない。こうなると、もう無敵の集団になる。エレベーターに乗ることを批判する女の子は、1人としていなくなるのだから。

 

この話には終わりがないため、もうこの話をするのはやめるが、とにかくそんなわけで、わたしは今日、無敵の集団(しかもクローン!)に出会い、例に漏れず、足の裏にじっとりと嫌な汗をかいたのだった。

ちなみに、この記事に書いてあることは、あくまでも、わたしの個人的な意見・主張であるということを、忘れないでいただきたい。

いぬのきもち

主人の帰りを待つ犬の気持ちをご存知だろうか。

毎日仕事に出かける主人を遠く離れた場所で想い、その帰りを待ち焦がれる犬の気持ちを。

 

わたしは、なんとなくだけれど、その気持ちがわかる。

というのも、2年ほど前、わたしは「犬のようなもの」だったからである。

 

以前のわたしには主人というものがいた。これは夫ではない。所謂ご主人様だ。つまり、主従の関係である人物がいたということである。

ただ、主従の関係と言っても、実際に会ってどうこうという関係ではなかった。海を少し越えた場所にお互い住んでいたため、顔を合わせて話したことはない。触れ合ったこともない。ただ、何度か電話で言葉を交わした程度の関係だ。そういう意味では、主従と言うには生ぬるい関係だったのかもしれないが、それでもわたしと彼の関係は、主人と犬、そのものであった。

 

彼とは主に電話越しでのやり取りを行っていた。彼がわたしに電話越しに指示を出し、わたしはそれに従い、彼の言うとおりにひたすら喘いだ。調教と呼ぶにはこれもまた生ぬるいやり取りなのかもしれないが、会えない分、彼の寵愛を受けるにはこの方法しかなかった。けれど彼はそれでも満足していた。わたしが彼の言うとおりにすることで、彼が興奮し、満足する姿を想像すると、わたしもまた嬉しかった。声のやり取りだけでも、もう立派に、わたしは姿の見えない彼に調教されていた。

主人と犬という関係は、約半年ほど続いた。今思うと短い期間であったが、わたしは彼に心底溺れていた。ただ、当時は揺れ動いてはいたものの、今思うとこれは愛ではなかったと自覚している。鬱を患い、人生のどん底でぐったりと横たわっていたわたしには、彼に支配され縛り付けられる快感が心地よかったのだ。

 

わたしはよく彼に犬であると表現された。それはもちろん、主従関係としての話でもあるし、また、ただ単純に、忠犬のようであると笑われたこともある。

彼とは電話でよく話をしたが、もちろん調教だけではなく、日常的な会話もした。わたしは実家で犬を飼っているから、犬の話をしたことがある。とても可愛いんだ、と親バカを炸裂させて彼に話をした。彼はただそのくだらない、どうでもいい話を一頻り聞いた後に、喉の奥で笑って、低く穏やかな声で「犬の話をするお前自身が、まるで犬みたいだな」と言った。

馬鹿なわたしにはどういう意味かわからなかったが、それを察した彼が「犬って、自分の玩具とか、宝物みたいなものを持ってきて、見て見てって飼い主に自慢してくるだろ。今のお前、それみたいだ」と教えてくれた。恥ずかしくて顔が熱くなったのを覚えている。反射的に謝ると彼は「いや、謝らなくていいよ。お前が飼い犬を可愛いと思うのと同じで、俺はお前の飼い主だから、そういうところがいいんだ」とまた喉の奥で笑った。彼はあまり笑うことが少なかったから、恥ずかしさと同時に、少し嬉しいような気持ちもした。

 

そんなふうに彼はわたしを自分の犬であると例えることがしばしばあり、わたしもすっかりその気になって、彼の犬というポジションに落ち着いていた。

彼は仕事人間だったため、仕事が忙しくなってくるとぱったりと連絡を途絶えさせてしまうこともよくあった。わたしはその間ひたすらに待ち続けるしかなかったが、修羅場をくぐり抜けると、仕事が終わった直後にわたしに連絡を入れてくれた。そして一言目には、必ず「いい子で待ってたか?」と、あの低くて優しい、穏やかな声で言うのだ。頭を撫でられているようなくすぐったい気持ちになって、いつも元気よく「はい!」と返事をした。犬が「わん!」と返事をするように。感情をあまり表にしない彼が「そうか、えらいな」と少し嬉しそうに言うたびに、わたしは満たされた気持ちになった。彼が褒めてくれる、その言葉が嬉しかった。

 

待っている間は心底寂しくて、何度も彼に連絡をしようとメッセージを打ち込んだ。だがそのたびにお菓子を目の前に差し出されながらもお預けをくらっている犬のように生唾を飲み込み、耐えていた。彼が帰ってきたときの、わたしを褒めてくれるあの言葉が恋しくて、いい子でいたくて、わたしは何度も彼が帰ってくるのを待っていた。

 

ご主人様の帰りを待つ犬の気持ちというのが、そのとき少し、わかった気がした。

 

乾かない洗濯物

本州の雪の降らない地方では、冬でも洗濯物を外に干すということを、わたしは大人になって初めて知った。

むしろ、わたしの実家では夏でも洗濯物は室内に干すのが普通だった。外に干すのは、主に寝具などの大きな洗濯物だけだったので、洗濯物というのは、特別な時にだけ外に干すのだと思っていた。

そんな生活が当たり前だったからか、一人暮らしを始めてからも、ベランダという便利なものがあるというのに、わたしはほとんど外に洗濯物を干したことがない。だって、虫とかつくかもしれないし。洗濯物が落ちて、汚れてしまうかもしれないし。

 

下着泥棒の話をたまに聞くが、これに関しても不思議だと思っていた。なぜ外に干さないのに下着を盗まれるんだろうと思っていた。そして、その下着泥棒の対策として、男性用の下着などを一緒に干しておくといい、という方法があるということも、大人になって知った。

面倒だなあ、と思う。そんなことしないで、下着だけでもいいから、室内に干せばいいのにな。なんでそうしないんだろう。

 

どうして洗濯物の話をするかというと、先日、洗濯物を取り込んでいる途中、物干し竿に見覚えのない趣味の悪いTシャツがぶら下がっていることに気が付いたからだ。それから、2枚のボクサーパンツも。あと、靴のサイズは基本的にSサイズであるわたしの足には大きすぎる靴下。

そんなものたちが、頭上にあるエアコンからの温風にゆらゆらと揺られて、こっそりと存在を主張していることに気が付いた。

 

先月別れた恋人のものである。

処分していいよ、と言われたにも関わらず、わたしは彼の服を洗濯していたのだ。

 

毛玉だらけのTシャツを畳んでクローゼットにしまおうとして、躊躇った。処分していいと言われているんだから、せっかく洗濯はしたけど、もうこのクローゼットに仕舞い込む必要はないのでは?そう思った。

けど、以前の恋人は何せ服の枚数が少ない。かわいそうになるほど、手持ちの服が少ない。付き合っている間に、何枚選んで、買ってあげたんだろう。手元にある、黒字に赤いギラギラした英語が描かれている、まるで中学生みたいなセンスの服は、もちろんわたしが選んだ服ではないけれど。

それでも、彼にとってはたぶん貴重な冬服のひとつなんだろう。処分せずに、洗濯機に放り込んだのも、彼のタンスの事情を知っているからだ。なんだか彼がちょっとだけかわいそうに思えて、我が家に取り残されていた数枚の下着たちと、それからクリスマスに思い立って彼のために購入したけれど、結局渡すことのできなかったYシャツとスキニーパンツと一緒に、小さな紙袋に入れて部屋の片隅に置いておくことにした。

 

いつかこれを渡す機会があるのだろうか。ないような気がする。それならいっそ、早々に彼の家に送りつけてしまおうか。その方がきっとわたしの精神衛生面的にも安全だろう。

それとも、下着泥棒対策として、洗濯物に紛れさせて干しておこうか。夏になったって、ベランダに洗濯物なんか干さないくせに。

 

今月の末には、何人かの恋人と一緒に過ごした時間も多い、ワンルームのこの小さな部屋から、わたしは出て行く。

これをどうするかについては、その時まで、あともう少しだけ、考えることにする。

事故物件

わたしは事故物件である。

 

まず、見た目が悪い。

目が小さい。鼻も小さいし口も小さい。それなのに顔が大きい。太っているから二重顎だし、首が短いし肩周りだってちょっとした屈強な男くらいのボリュームがあるから、なんだか厳つい。
唯一それなりに自慢できるFカップの下には、残念ながらそれと同じくらい、それ以上の大きさの腹があるし、太ももなんてもう、抱き枕の域である。

 

どうでもいいけど、太もも型の抱き枕、ヴィレッジヴァンガードに売っていそうだし、赤いリップをした黒髪ボブの女が「かわいいー!」なんて言いながら抱き締めていそうだ。
お前が抱き締める前に、ちょっと小汚いおっさんが触れていたぞ、なんていうのは絶対に教えてあげない。

 

それから、性格だってお世辞にもいいとは言えない。

ナルシストなくせに卑屈で、ヘタレで、根性なし。メンタル面だって絹豆腐みたいに崩れやすいし、捻くれ者で天邪鬼。おまけに嫉妬深くてすぐに怒る。

 

完璧に事故物件だ。

 

そんなわたしでも今まで誰かとお付き合いをしてきたこともあるし、ということはつまり、誰かに愛されていたことがあるということだ。蓼食う虫も好き好きと言うか、有難いことに、誰かの目には多少魅力的に映ってくれているらしい。

 

事故物件が誰かに愛される感覚を知ってしまうとどうなるのか。

もう、堕ちるところまで堕ちるしかない。というのが、わたしの考えである。

 

 

元々人間としての魅力がないというのに、一度誰かに愛されてしまっているものだから、その感覚が忘れられない。

だから寂しさゆえに誰かを求めるけど、こちとら事故物件だもの、だーれも住んではくれない。

ただ、住みはしないけど、この世の中には物好きがいるものだから、たまに内覧に訪れる人がいる。

 

「ここ、事故物件とは言われてるんですけど、でも中身はそんなに悪くないでしょう?」

「あー、そうですねえ」

「見た目はちょっとアレですけど、まあ、中身はほら、ちょっとところどころ壁紙が剥がれてたり、フローリングがギシギシ音を立てたり、あ、ここはちょっと水漏れが…」

「そう、ですねえ…」

「…次の物件、見ましょうか?」

 

事故物件の紹介人であるわたしは、しかも大変下手くそな営業マンである。自分からダメなところを教えて、相手の顔色を伺っているのだ。それでも悪くない、と言われたくて。言われるはずのない欠点しか並べていないというのに。さらに、押しが弱いものだから、自分から次へ行くよう促してしまうのだ。

 

もうお前営業マン辞めちまえ。頭の中で上司役のわたしが言う。

非常にごもっともな意見だ。

 

話を元に戻すと、つまり、たまに訪れるチャンスにも、臆病な性格であるから、自分から身を引いてああすればよかったと後から後悔して、ひとり枕を濡らしたり、怖いもの見たさで近づく相手にも本気になって、結局は都合がいい女となり、そうしてそんな自分に嫌気がさしたりして、またひとりで枕を濡らしたりしているのである。

 

何度繰り返したって、事故物件を愛してくれる人なんてそうそういるわけがないのに。

わかっているくせに、また愛されたいからやめられない。

こうやって堕ちるところまで、堕ちていく。

 

わたしという事故物件は、今現在、そんな人生を送っている。