読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

今日もどこかへ帰りたい

帰る場所なんてない、都合のいい女の独り言

丸めたティッシュ

賢者タイムという言葉があるように、セックスの後の彼はいつも気怠げだ。ぼんやりとした眼差しでスマートフォンの明かりを目で追っている。彼の男のくせに細くて長い指が、上に下に、右に左にと画面をスワイプするたびに、忙しく黒目が動くのが見えた。薄暗い光の中、明るさを少し落としたスマートフォンの画面が照らす、心が此処にない彼の仰向けになった横顔を盗み見るのが好きだった。彼はたまにわたしの視線に気が付いて横目でわたしを見た。忙しく動く黒目がわたしをちらりと見て、またスマートフォンに目線を戻す。何度かそれを繰り返した後に、彼は鼻でふっと笑った。

「なんで見てるの?」

楽しい?と彼は言いながら、やはりスマートフォンからは視線を外さなかった。わたしはうん、と短く返事をした。枕に埋まった口元から、くぐもった声が漏れた。うん、と聞こえたかどうかすら怪しいほど、わたしの返事は小さくて曖昧だった。わたしの耳にそう聞こえたように、彼の耳にも、曖昧に聞こえたようだった。うん?と、今度は彼がまた鼻で笑いながらわたしにそう言った。なぜわたしに言ったのかわかるのかというと、彼の黒い目が、一瞬わたしを見たからである。わたしはもう一度、うん、と返事をした。今度は枕から少し口を離したから、しっかりと言えたはずだった。なのに、彼からの返事はなかった。彼はまた、ぼんやりとした眼差しでスマートフォンを見つめていた。彼の興味は、もう今は、わたしには向いていないのだ。そしてそれを悲しいとは思わなかった。彼の興味はいつだってわたしには向いていないのだから。これがわたしの日常茶飯事である。だから正直、セックスの後の彼がわたしに気付いて声をかけてきたことに驚いてしまって、気が利いたこと口にする前に、反射的に短い返事が口から出て行ってしまったのだ。それによって彼の興味が逸れてしまったのか、それとも元々さほどわたしの視線に興味がなかったのかもしれない。経験上から、おそらく彼の場合は、後者である。

「つまんねーなー」

彼がそう言った。ごめん、と言いかけた声を、口から飛び出す前に必死に飲み込んだ。わたしに対しての言葉ではないのだ。これも、彼の独り言である。もしくは彼が今見つめている、スマートフォンに対してかけた言葉だ。彼はそれだけ言うと、また口を閉ざして、画面を上から下に、右から左に何度も何度もスワイプした。彼の黒目が忙しく動く。セックスの後の乱れた前髪が爆発して、彼の決して広くはない額が露わになっているのが、なんだか少年のようで、少し可愛らしかった。すん、と彼が鼻をすする。眉間にしわを寄せて何度か鼻を押し上げた後、突然彼は左半身を起こした。伸ばした左腕はわたしの上空を飛んで行って、ベッドサイドにあるテッシュボックスへと着地したようだった。ティッシュボックスから、数枚のテッシュを引き抜く音が、耳のすぐそばで聞こえた。わたしの目の前には、彼の薄い胸板がある。少し見上げれば、男らしいくっきりとした喉仏も、彼の形の綺麗な顎も見ることができた。だけど、彼の目はわたしからは見えなかったし、おそらく彼もわたしを見てはいなかっただろう。彼はその体勢のまま、適当に鼻を噛むと、丸めたティッシュを床に投げ捨てた。そしてまた何度か鼻をすすりながら、元の位置へと戻っていく。わたしがもう一度彼の仰向けになった横顔を見られるようになるまで、彼はわたしを一切見ることはなかった。

「明日何時に起きる?」

彼はスマートフォンを見ながら言った。画面を盗み見ると、アラームをセットしているようだった。わたしは明日は仕事が休みだから、何時でもいいと答えるしかなかった。彼はそっか、と短く言うと、画面を少し操作して、枕の横へ放り投げた。大きなあくびをした後、彼はわたしに背中を向けた。

「おやすみぃ」

やる気のない声でそう言って、彼は背中を丸めた。その背中の、肩甲骨の少し左上に、小さなホクロが2つ並んでいるのを知っている。そのホクロを眺めて、まるでそのホクロへ言うように、わたしもおやすみ、と返した。そうして、彼に背を向けて、同じように背中を丸めた。少し遠くに見える床に、丸めたティッシュが転がっている。涙がじわじわとせり上がってきて、鼻を一度だけすすった。

「あ、そうだ」

突然、背中から声が聞こえたから、思わず肩が跳ねた。彼はとても寝つきがいい人だったから、もう半分くらいは夢の中なのだと思っていた。ベッドが軋む音が聞こえて、わたしの背中が沈んだ。背中に、温かい肌が触れた。彼はわたしの背中に抱きつき、わたしを一度だけぎゅっと強く抱いた後、こめかみにキスをした。見上げると、彼の黒い目が、わたしを見つめていた。見つめて、それから歪められた。キツネみたいな顔をして、ニコニコと笑っていた。

「おやすみのチュー」

そう言って触れるだけのキスを唇に落として、さっさとわたしに背中を向けた。そうしてはあ、と息を吐き出すと、肩までしっかりと布団を手繰り寄せ、それから10秒後には、寝息を立てていた。彼の背中を見つめる左目から涙が流れて、シーツを濡らした。今度は右目から流れた涙が、鼻筋を伝い、左目のまつ毛を濡らして、同じ道を通ってシーツをまた濡らした。それを何度も何度も繰り返した。彼に気付かれないようにと、背を向けて、息を殺して、それから数十分泣き続けた。彼は起きることなく、静かな寝息を立て続けていた。わたしは床に転がっている、丸まったティッシュを見つめたまま、しばらくの間、苦しくなる呼吸と、こめかみから耳まで伝う涙と戦い続けた。

 

いつの間にかわたしも眠っていたようで、次に目を開けるとシャワーの音がしていた。床に落ちていたティッシュはなくなっていて、ベッドの脇にあるプラスチックの黒いゴミ箱の中に、使用済みのコンドームと、白い丸まったたくさんのティッシュたちに紛れて、それは捨てられていた。