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今日もどこかへ帰りたい

帰る場所なんてない、都合のいい女の独り言

好きになりたい

眉間にキスをされるのが好きだ。ベッドの中で、不意に抱き寄せられて、なに、と言わんばかりに見上げると、慈しむような優しい視線で見つめられ、眉間にそっと唇が降りてくる。その瞬間が好きだ。それから自然な流れで、顎に手が添えられ、柔らかい唇同士が触れ合うのも好きだ。つまりのところ、わたしはキスがとても好きだ。こめかみにキスを落とされるのも、頬に音を立ててキスをされるのも、耳朶を少し乱暴に甘噛みされるのも、どれをとってもわたしはそれが好きだ。

 

キスももちろんだけれど、それ以上に肌で触れ合いたいと思う。好きだと思う人に触れたいと思う。白いね、引きこもりだから、と笑ったその肌にも、ピアノをやっていたのね、とまじまじとわたしが見つめていたその手指にも、徹夜して少しヒゲが伸びた顎や頬にも、触れていたいと思う。それはきっと、あなたに好意を持っているから触れたいと思うのだ。

 

テーブルを挟んで様子を伺うように見つめてくるその少し日に焼けた肌に、わたしは触れたいとは思わなかった。箸を丁寧に持ち、少しでも上品に見えるよう気を使ってうどんを口に運ぶその手には触れたいとは思えなかった。

優しい人なのだと思う。わたしが不愉快にならないようになのか、それとも自分が悪く見られたくないからなのかはわからないけれど、できるだけ綺麗でいようというその心遣いが見え隠れしていて、わたしはそんな人を前にしておきながら、ああ、あの人は箸の持ち方がわたしに似ていて、ちょっとだけ下手くそだったなあ、なんて思い出していた。なんとも失礼な話である。

 

思い出していたはずなのに、わたしは彼の顔を覚えていない。テーブルの向こうで、落ち着かない様子でわたしと言葉を交わした人物の顔は今でもはっきりと覚えている。それなのに、彼の顔や大まかな形が思い出せず、その代わりに、お酒に少し酔ったときの赤みを帯びた頬や、少し特徴的な箸の持ち方など、断片的な部分だけを思い出しては、今目の前にいる人物に透かして、わたしは彼を見つめていた。
不思議な気持ちだった。目の前にいる人物と、まわりの風景と、わたしの心の中がまるでバラバラだった。ハサミで不器用に切り取られて、1枚の紙に貼り付けられたように、バラバラだった。そして聞きなれない声で問いかけられるたびに、声をあげて笑った。目の前の人物も安心したように笑っていた。今ここにはない彼の姿が、ぼんやりと薄れて、消えていった。

 

初めて実物の彼の肌や唇に触れたのは、その日の、その時間の8時間ほど後のことだった。

まだほのかに甘ったるいようななんとも言えない名残惜しさを、朝日の差し込む明るい2人の部屋に残したまま仕事に行き、薄暗い、今度は1人になった部屋に帰ってきてから、いくつかの通知を適当に確認してため息をついた。求めていた人物のからの返答はなかった。

 

自分でも馬鹿だなと思う。返信がこないことに落ち込み、向こうが忙しいと知っていながら次はいつ会えるのかと、むしろ次があるのかと怖くなって、自分から次の予定を伺いにいってしまう、その積極的な態度こそ、きっと向こうがそっぽを向いてしまう理由であるとわかっているのに、それでも不安が勝って、わたしは黙っていられない。馬鹿なやつだと心底思う。
そういうわたしを好きになってもらいたいのは確かだけれど、それでもそんなことが許されるのは、きっとわたしのような醜女ではなく、もっともっと綺麗な女の人だけなのだということもわかっているから、わたしは余計に心のど真ん中を、大きな槍で突き刺されたかのような気持ちになった。取り繕わない姿を好いてもらえるのは世界から許されたほんの一部の人物であり、わたしのような女は、少しでも良いように見せなければいけないのに、それが下手であるから、都合がいい女で終わってしまうんだろう。

けれど今はまだそれでもいいと思ってしまう。一言メッセージを送ればすぐに返事を返してくれる関係性でいてくれるなら、まだそれでいいと思ってしまう。

 

薄暗い部屋の中、彼の困ったような優しい微笑みと、柔らかい唇の感触を思い出して、彼だけから返事のないスマートフォンを抱き締めて、少しだけ泣いた。

彼の一番になれる日は、たぶんまだまだ遠い。