干からびる
寂しいなあ、と思う。誰かに愛されたいなあ、と思う。けれどわたしはわがままなので、誰かを愛するのはもう疲れたし面倒くさいなあとも思ってしまう。好きだった人にはちゃんと愛されていたはずなのに、どうしてわたしばかりいつも愛情を搾り取られているような気持ちになるのだろう。寂しさや虚しさに耐え切れずぼだぼだと涙を流してはみるものの、哀れな自分を演出しているようで気持ちが悪い。けれど今のわたしはとても恵まれた環境にいるというのに、どうしてこんなにつらく悲しい気持ちでいっぱいになるのだろうと思うと、馬鹿な自分が余計に嫌になって、やっぱりぼだぼだと涙は零れ落ちていく。そうすることで不幸にでもなったつもりなのか、と自分に問うと、自分が恥ずかしくて、情けなくて、やっぱり涙は止まらない。最悪なループだと思う。それでもこのループは終わりが見えないし、もう一生、わたしはこのループとはお付き合いをしなくちゃならないんだろうな。そう考えると、やっぱり鼻の奥がツンとして、涙腺が壊れてしまったみたいに、ただただ泣くことしかできない。今日もわたしは馬鹿だなあ。
誰かに底なしに愛されたい。思えばわたしが誰かに愛情を注ぐときには、いつもその人の素敵なところもそうでないところも引っくるめて許して、受け入れて、抱きしめてきた気がする。少なくとも、わたしはそうしてきたつもりだ。見返りを求めるつもりは決してないのだけれど、それでもわたしだって好きな人に骨が折れるほど抱きしめられたり、擦り切れるほど頭を撫でられたりしたい。まあ、そんなの夢のまた夢だということはわかっているのだけど。
わたしが誰かを深く愛して、誰かを許して、受け止めてきたように、誰かに深く愛されたいと思う。わたしだけがあまりにも必死に愛しすぎていたのだろうか?わたしがなんでも許して、受け入れてしまったせいで、わたしは深く愛してもらえなくなってしまったのだろうか?むしろ、わたしはわたしが思うほど、誰かをしっかりと許して、受け入れることなんてできていなかったのだろうか?それとも、もしかしたら今までお付き合いしてきた人も、深く愛してくれていたのかもしれない。そうだとしたら、相手からの愛情を感じることができなかったわたしはやっぱり大馬鹿だ。そもそも、愛ってなんなんだ。わたしって、誰かをちゃんと愛せていたの?誰かにちゃんと愛されていたの?それに気付けなかった馬鹿な人間なの?またひとつ、贅沢な悩みが増えてしまった。
ぐるぐるぐるぐる、頭が回転している。良いわたし、悪いわたし。自分を許そうとして、認めようとして、でもやっぱり自分が情けなくて、憎くて、とにかくもう、頭が痛い。涙は今日も簡単には止まってくれない。いっそこのまま泣き続けて、干からびてしまえばいいのに。干からびてしまって、死んでしまって、感情や悩みなんてすべて忘れ去って、塵になって、風になって、全部全部、消えてしまえたらいいのに。
雑草根性と生き地獄
お先真っ暗とはことのことかと思う。
ゆびきりげんまん
「どうして好きな人って表現するの?あっ、彼氏じゃないの?なのにやることやっちゃってるの?でも彼女にしてくれないんだ?」
二度と会えない
わたしの好きな人はわたしの住んでいるところよりも800kmほど遠いところに住んでいる。彼とわたしはお付き合いはしていないらしいが(らしい、なんて曖昧なのは、彼が言葉を濁しているから)、一応お互い好き合ってはいるようなので、本当なら今すぐにでも彼のところへ飛んで行ってしまいたいところなのだが、何せお付き合いもしていない程度の間柄じゃ、彼のことを追うことも躊躇ってしまうのである。躊躇うくらいじゃあ本気で彼のことを好きじゃないのだから、やめてしまえなんて思う人もいるかもしれない。ただ、ここには書かないけれど、わたしと彼のなんとも言えない、微妙で腹立たしい関係、それからわたしの家庭の事情などを考慮した結果、躊躇っているのだということをどうか分かって欲しい。気持ちだけで、身一つで彼の元へ飛んで行けるほど、わたしも彼ももう若くはないのだ。
彼と離れ離れになってもう2ヶ月と半月ほど経つ。一応毎日のLINEのやり取りと、2週間に一度ほどかかってくる彼からの愚痴の電話に対して、そっかそっか大変だね、と相槌を打つ程度の関わり合いはしてきたつもりである。ただ、ここ最近になって彼の様子が少し変わり、今度は更に離れた大都会・東京に転職活動に向かうと言い始めた。ただでさえ、彼は地元を離れる際にあーだこーだと文句を言いながら飛び立ったのである。それが、また更に遠くへ行ってしまうのかと思うと、呆れなのか、悲しみなのかわからないけれど、とにかくため息が出た。彼がどうしたいのかまったくわからない。おそらく、彼自身もわかっていないのだろうと予測している。自分のやりたいこと、できること、何もかもが迷宮入りしてしまっているのだと思う。もちろん近くにいれば、少しでも彼の力になれるようわたしも努力しただろう。けれど、こうも距離が離れてしまっている以上、わたしにできることなんて、何もないのだ。そして、わたし自身にも、そんな不安定な彼の元へ飛んで行って、彼と将来を見据えながら一緒に過ごし、彼のことを支えられるような自信も、勇気も、それからお金だって、手元にはないのである。
ただ、彼は今の時点で、わたしに自分の元へやってくるよう言葉にすることが多々あった。わたしも、その言葉に乗って、彼の元への引越し資金の計算などをしたこともあった。彼はその分のお金も自分が払うとなんの迷いもなく言った。その時に初めて、彼のほうがわたしとの関係について前向きに考えてくれているのかもしれないと気が付いた。なのに、わたしは準備はほぼ整っているという彼の言葉に対して、でも、と言葉を濁すことしかできなかった。両親や兄弟からの言葉、恋人ではないという微妙な彼との関係性、そして未だに自立することができない自分への不甲斐なさ。それらがごちゃ混ぜになって、彼と一緒になることについて二の足を踏んでいるのは、自分だけなのではないかと薄々気が付き始めている。結局のところ、またわたしがすべて悪いのだと。
堂々と恋人の元へ飛んで行ける人が羨ましいと思う。転勤になった彼について行く人、遠距離の彼の元へ引っ越す人。もちろん、そういった人にもたくさんの障害があって、それを乗り越えてきたのだと思う。その中には、わたしが今抱えているような問題もあったのだと思う。ただ、それはすべて「恋人」の側にいるための行動であるということが大前提なのである。恋人。いつか結婚するかもしれない人。もう何年もお付き合いを続けている人。もう一生側を離れたくない人…
わたしは彼のためにそこまでできるんだろうか。彼のために問題を乗り越えることができるんだろうか。彼の側にいることが、わたしの願いなんだろうか。考え出すときりがない。最初にも書いたとおり、わたしも彼も、気持ちだけで行動を起こせるほど若くはないのだ。年齢的にはまだまだかもしれない。けれど、特にわたしには、もう時間がないのだ。女として生きて行ける時間が、わたしにはもうあまり残されていない。今後の行動には、慎重にならなければならない。そんな気持ちが、わたしのなけなしの勇気にさらに待ったをかける。そして、さらに離れた場所へ行ってしまうと言う彼の気持ちや行動も、わたしの彼を好きだという気持ちをどんどん吸い取ってしまう。自分のやりたい仕事に就けず、人生について迷走する彼。そんな彼の気持ちを読み取れず、人生において迷走するわたし。いつ終わりが来るかわからないこの関係を、わたしたちはいつまで続けるつもりなんだろうか。
わたしでいること
仕事や恋愛が自分の思い通りにならないことって、たくさんある。たくさんあって、そこでわたしは過ちを犯したんだと自分に言い聞かせて、その度に後悔と反省をしたつもりでいた。けれどわたしはいつまで経ってもわたしのまま。いつの日だってわたしのまま。何度「学習しない」と言われたら気が済むんだろう。ここにこう書いているのに、たぶんこの先もわたしはまた似たような過ちを犯しては後悔して、そしてそれを繰り返していくんだろう。何度も何度も。だってそれは、わたしがわたしだから。
無敵の集団
本日、職場からの帰りの出来事である。
今日も1日頑張った、とため息をつき、左耳、右耳とイヤホンをさしながら、地下へ向かう職場のビルのエスカレーターに飛び込む。時間帯が時間帯であるため、下りのエスカレーターはぎちぎちなくらいに人が並んでいたが、隣の上りエスカレーターには、ぱらぱらとしか人が立っていなかった。すれ違う人々は皆疲れた顔をしている。皆さん、今日もお疲れ様。明日も頑張ろうな。心の中でエールを送る。もう付き合って5年ほどになるiPod nanoを片手に帰りは何を聴こうか、と今まさに悩み始めようとした途端、上りエスカレーターの乗り口付近に、6人ほどの女の子たちが固まっているのが見えて、思わず思考が止まった。
クローンだ。もしくはストームトルーパー。
どっちも同じようなものだけど、とにかくそれだと思った。
まず、わたしほどのショートカットの女の子はいなかった。むしろ、肩につく程度のミディアムボブの子すらいなかった。派手すぎず地味すぎない、ちょうどいい茶髪。胸のあたりで揺れる、ちょうどいい長さの巻き髪。全員が全員、ほぼ同じような髪型だった。頭のてっぺんが黒くなりつつあるような、そんな手抜きは許されない。毛先まできっちりと綺麗な茶髪だ。強いて言えば、前髪がセンター分けであるか、斜め分けであるか、もしくはぱっつん前髪か、程度の違いである。
それから、わたしのようにでっぷりと着膨れするようなもこもこのモッズコートを着た女の子はいなかった。アジア系の観光客が着ているようなダウンジャケットを着ている子ももちろんいなかった。ガーリーすぎずカジュアルすぎない、ちょうどいいシルエット。甘すぎず個性的すぎない、ちょうどいいパステルカラー。こちらも全員が全員、ほぼ同じようなチェスターコートを着ていた。ピンク、ブルー、ベージュ、グレー、もう一回ベージュ、もう一回グレー。4色展開だ。強いて言えば、靴の形がロングブーツであるか、ショートブーツであるか、程度の違いである。
彼女たちはちんたらと歩きながら、2人ずつに分かれて上りエスカレーターに乗った。その後ろで、これは見事にてっぺんだけが禿げ上がった中年のサラリーマンが、追い越したそうな顔をして、女の子たちを見上げていた。
「なんかいいにおいするー」
「わかるー!」
「ジンギスカンだよねきっとー」
「ジンギスカンのにおいかー」
「おなかすかないー?」
「わかるー!」
全体的に語尾は伸ばし気味だ。それから「わかるー!」の一言は、誰が言っても他の言葉よりも2トーンくらい高めで、声のボリュームも通常が20だとしたら26くらいの絶妙なバランスで、彼女たちの姿が見えなくなるまで、あと2回ほど繰り返されていた。
わたしはこういう女の子の集団を見ると足の裏にじんわりと嫌な汗をかく。歩いている後ろに気配を感じようものなら、玩具のようなカートに乗った皆さんご存知の配管工・マリオが、アイテムボックスから見事にスターを引き当て、無敵状態になりながら後ろから煽ってきているかのような気持ちになった。こんなときばかりは、足の裏にどころか、もれなく脇からの汗も止まらなくなる。
こういった女の子の集団のことを、わたしはこっそりと「無敵の集団」と呼んでいる。
つまり、スターを引き当てた、無敵状態のマリオが集団になっているのだ。
そんなの、怖いに決まっている。
女という生き物は、共感をする生き物である。友だちに悩みを打ち明けるときにも、その悩みに対するアドバイスなど求めてはいないのだ。男性がこの正解にたどり着くことができず、困り果てている姿をよく見かけるが、女の子の悩み相談には、基本的には「わかるー」とか「あるよねそういうのー」とか相槌を打っていればいいのだ。まともに話を聞き、解決の糸口を見つけようとするだけ無駄である。むしろうっかり糸口を見つけてしまい、的確なアドバイスなどしようものなら、そこが喫茶店だとしたら、おそらく冷えたカフェオレを顔に引っかけられるだろう。
女はそういう生き物であるから、友人同士で痛烈な批判をしない。軽口で「それはあけみが悪いよー!」なんて笑い飛ばすことがある程度で、相手も「そうかなー?」なんて、本気にしないことがほとんどだろう。だから無敵なのである。その集団の中で、自分を強く批判してくる人物はまずいないのだから。つまり、自分が悲しむことも、傷つくこともほぼないのだ。これは無敵であると言っていいとわたしは思う。
ここで間違ってはいけないのは、女の子が無敵な訳ではないということである。むしろ、女の子は脆い生き物だ。正確に言うと、脆い生き物であるように見せかけるプロだ。女の子は1人でいると、たちまち脆弱になる。脆弱になって、世の男たちに守ってもらおうとする。その点では女の子は1人でも無敵と言っていいのかもしれないが、それでも女の子たちは意外と1人でいるときは、大人しく行儀のいい生き物になる。
例えば、1人でいるときは、地上と地下鉄の改札を結ぶエレベーターにあまり乗らなくなる。1人ならほぼ迷わず階段を選ぶだろう。だが、これが仲の良い女の子2人、3人になってみたらどうだろう。「歩き疲れたよねー」「エレベーター乗る?」「いんじゃない、疲れたし」なんて言ってキャーキャーとやたらに笑い声を上げながら、エレベーターに乗ること間違いない。こうなると、もう無敵の集団になる。エレベーターに乗ることを批判する女の子は、1人としていなくなるのだから。
この話には終わりがないため、もうこの話をするのはやめるが、とにかくそんなわけで、わたしは今日、無敵の集団(しかもクローン!)に出会い、例に漏れず、足の裏にじっとりと嫌な汗をかいたのだった。
ちなみに、この記事に書いてあることは、あくまでも、わたしの個人的な意見・主張であるということを、忘れないでいただきたい。
乾かない洗濯物
本州の雪の降らない地方では、冬でも洗濯物を外に干すということを、わたしは大人になって初めて知った。
むしろ、わたしの実家では夏でも洗濯物は室内に干すのが普通だった。外に干すのは、主に寝具などの大きな洗濯物だけだったので、洗濯物というのは、特別な時にだけ外に干すのだと思っていた。
そんな生活が当たり前だったからか、一人暮らしを始めてからも、ベランダという便利なものがあるというのに、わたしはほとんど外に洗濯物を干したことがない。だって、虫とかつくかもしれないし。洗濯物が落ちて、汚れてしまうかもしれないし。
下着泥棒の話をたまに聞くが、これに関しても不思議だと思っていた。なぜ外に干さないのに下着を盗まれるんだろうと思っていた。そして、その下着泥棒の対策として、男性用の下着などを一緒に干しておくといい、という方法があるということも、大人になって知った。
面倒だなあ、と思う。そんなことしないで、下着だけでもいいから、室内に干せばいいのにな。なんでそうしないんだろう。
どうして洗濯物の話をするかというと、先日、洗濯物を取り込んでいる途中、物干し竿に見覚えのない趣味の悪いTシャツがぶら下がっていることに気が付いたからだ。それから、2枚のボクサーパンツも。あと、靴のサイズは基本的にSサイズであるわたしの足には大きすぎる靴下。
そんなものたちが、頭上にあるエアコンからの温風にゆらゆらと揺られて、こっそりと存在を主張していることに気が付いた。
先月別れた恋人のものである。
処分していいよ、と言われたにも関わらず、わたしは彼の服を洗濯していたのだ。
毛玉だらけのTシャツを畳んでクローゼットにしまおうとして、躊躇った。処分していいと言われているんだから、せっかく洗濯はしたけど、もうこのクローゼットに仕舞い込む必要はないのでは?そう思った。
けど、以前の恋人は何せ服の枚数が少ない。かわいそうになるほど、手持ちの服が少ない。付き合っている間に、何枚選んで、買ってあげたんだろう。手元にある、黒字に赤いギラギラした英語が描かれている、まるで中学生みたいなセンスの服は、もちろんわたしが選んだ服ではないけれど。
それでも、彼にとってはたぶん貴重な冬服のひとつなんだろう。処分せずに、洗濯機に放り込んだのも、彼のタンスの事情を知っているからだ。なんだか彼がちょっとだけかわいそうに思えて、我が家に取り残されていた数枚の下着たちと、それからクリスマスに思い立って彼のために購入したけれど、結局渡すことのできなかったYシャツとスキニーパンツと一緒に、小さな紙袋に入れて部屋の片隅に置いておくことにした。
いつかこれを渡す機会があるのだろうか。ないような気がする。それならいっそ、早々に彼の家に送りつけてしまおうか。その方がきっとわたしの精神衛生面的にも安全だろう。
それとも、下着泥棒対策として、洗濯物に紛れさせて干しておこうか。夏になったって、ベランダに洗濯物なんか干さないくせに。
今月の末には、何人かの恋人と一緒に過ごした時間も多い、ワンルームのこの小さな部屋から、わたしは出て行く。
これをどうするかについては、その時まで、あともう少しだけ、考えることにする。