今日もどこかへ帰りたい

帰る場所なんてない、都合のいい女の独り言

雑草根性と生き地獄

お先真っ暗とはことのことかと思う。


わたしは専門学校卒の20代前半の女だが、専門学校を卒業してから4年の間にすでに4回転職を行なっている。そのうち1年仕事が続いたのは1件しかなく、最悪なところは3ヶ月しか続かなかったくらいだ。しかも、4回の転職のうち2回は派遣社員への転職だ。幸い、自分は派遣社員のほうが直接雇用の仕事よりも向いていると言うか、気持ちを楽にして働くことができると気が付くことができたし、自分のこの先の生き方についても少しだけ光が見えたような気はするので、それはそれで良い発見ではあったのかなとは思うけれど。
それでも正社員で働いていないことへの世間からの風当たりというのは冷たく、所詮は自分はマトモな人間ではないのだなということを思い知らされた。特に、正社員での再就職を望む両親の元へ帰ってきてからは、もう何度「でも派遣じゃあねぇ」という言葉を聞いたものか。わたしは正社員として直接雇用で働くということには向いていない、きっとまた辞めてしまうくらいなら、派遣社員でも細々と長く続けていきたいと何度も説明しているが、両親はわたしが頑固であることを知っているため、その場ではわかったように頷きはするが、何ひとつ理解はしてもらえないのである。
少し前までは両親との仲は良いものの、仕事に対する考え方がうまいこと噛み合わず噛み付いてしまうこともあったが、今では年寄りとは感覚が違うから話し合っても無駄だと思うようになり、仕事についての話をあまりしなくなった。わたしさえ適当に流していれば、そしてきちんと仕事を始めてしまえば、両親もとやかく言わなくなるのは目に見えている。年寄りとは感覚が違うと言うと少し失礼かもしれないが、実際両親もわたしや姉のことを「最近の若い子はすぐに〜…」と言いたがるのだから、こちらが向こうを年寄りだと言っても何にもおかしくはないだろう。

自分自身、派遣社員として働くことに不安がないわけではない。父はすでに定年退職しているし、母の定年も近づいてきている。そうなれば、実家に暮らしている人間の中で唯一収入があるのはわたしだけになる(姉は恋人と同棲しているため)。その時に、わたしはどんな人間として、どんなふうに生きているのだろう?と考えると、明るい未来など微塵も見えず、ただただその時にも、この先どうすればいいのか、という気持ちを抱えて鬱々としている自分しか想像ができないのだ。友だちも少ない、(正式な)恋人もいない。結婚などしているビジョンはまるで見えないし、していたとしても誰とどんな人と結婚しているのかも想像がつかない。また、もし今の恋人のような人と結婚していたとしてわたしはそれで本当に幸せなのだろうか?未来のことなんて誰にもわからないし、考えたってキリはないのだけど、それでも時折考えては、何も見えない真っ暗闇の中、強烈な不安に押し潰されてしまっているのが現状だ。そういう時に、そうか、これがお先真っ暗ってやつなのか、と自覚するのである。

母親の付き添いでスーパーに買い物に来ているとき。父親の運転する車の助手席に座っているとき。姉と手を繋いだり腕を組んだりしてショッピングモールやゲームセンターで遊んでいるとき。ふとした時に、自分は6年ほど前から先月まで、1人で過ごしていたんだよなあとなんだか懐かしいような気持ちになり、そして同時に、その時にはなんやかんやでいつも恋人が近くにいたなあ、と思い出すことが多くなった。思い出した後には、必ず、猛烈に恋人が欲しくなる。つまり、ものすごく寂しいんだとわたしは思う。
実家に帰って来れば、少しは気が紛れるのかと期待していた。実際、普段から喋ることも多くなったし、寂しい思いをする機会は激減したと言える。ただ、母には父が、父には母がいるし、姉には長年付き合っている恋人がいる。お互いにそういった相手がいる中で、わたしだけはひとりぼっちである、という疎外感のようなものは否めず、それが逆に、おかしな強烈な寂しさに変換されるのだと感じている。そんなときは、フローリングの上でごろりと横になる、わたしと同じく独り身である愛犬の胸毛に顔を埋めにいく。15歳の老犬は、大体は決まって困ったような嫌そうな顔をするのだった。

「あなたはまだ若いんだから」と言われることが本当によくある。その言葉に対してどう返事をしたらいいのかわからないのは、若いことが良いことであるのか悪いことであるのかイマイチ自分でもわからないからだ。若いから可能性があるのか?それとも若いから苦労をしろということなのか?どちらにしたって、わたしは自分が20代前半だということで何か可能性があると感じたこともないし、若いからという理由で物事が許されるような年でもなくなってきていることにも薄々感づいている。
先日、「若いから挑戦をするのも大切だ」と派遣会社の営業マンに励ましのようなお説教のようなことを言われたが、わたしは元々社会で、世間で、今のこの世では非常に生きにくい性格であることは自覚しているため、生きるだけでも精一杯なのに、これ以上なにに挑戦したらいいのかと途方に暮れてしまった。
世の中は叩けば伸びる雑草のような人材を求めているのかもしれないが、失礼だとは思うが、それに耐えられるのは本当に雑草のように適当にそれなりに生え揃い生きてきた一般的な人たちで、わたしのように生きにくさを抱えて今までの人生を歩んできた温室育ちの人間には、世間の叩けば伸びるという育成方法はただの暴力だと感じることも多いのではないかと思う。もちろん、本当に手をあげられているわけではない。わたしが他の人たちと一緒になるよう、一緒に生きていけるよう切り揃えられ、時に摘まれ、時に叩かれるような行動、言動などを目にすると、なんだか今すぐにでも殴りますよ、とファイティングポーズを取っているボクサーを目の前に配置されているような気がして、どうしても一歩引いてしまいがちなのである。できることなら、そういう人間なんだと理解してもらえれば有難いが、現実問題そうもうまくいかず、わたしもそれを受け入れることしかできないのだ。こうやって、少しずつ世間のはみ出し者というレッテルが貼り付けられていくのかと思うと、なんだか腑に落ちない部分も多いような気がする。

わたしはよく「この世は地獄である」と言葉にする。生きていても地獄だと思うことがこれほど世の中には溢れているのだから、いっそ死んでしまって、なにも考える、感じることができないようになってから、地獄を見るほうがずっと楽なのではないかと感じることがある。ただし実際自殺する勇気もなく、甘ちゃんだと指を指されて笑われることになり、そんな勇気がない自分にも腹が立って、また再び「この世は地獄だ」と思うきっかけを作り出す。なんとも生産性のない、ゴミのようなループだろうと心底思う。

いっそ死ねれば、この先の人生お先真っ暗だと不安に思ったり、嘆くこともないのだろう。現実を生きるよりも、そのほうがどれほど良いか。けれど、今日もしぶとく生き続けている自分にまた嫌気がさしながら、この生き地獄の世の中を泳いでいかなければならないのかと思うと、肺の空気を目一杯吐き出すような、ふかーいため息がでてしまうのであった。